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NHKスペシャル 認知症医療を問う 

さきほどまでNHK総合で放送していた番組です。
読んでいた本を置いて見入ってしまいました。

「尊厳ある人間と認めてほしい」
「若年性で進行がはやく、絶対に治らないと医師に言われ、毎日泣いて過ごした。」

私は認知症ではありませんが、私の持病にも特効薬がなく、まさに

「治りませんから、この病気は。」

と、あっさり言われた経験があり、とてもひとごととは思えず。
お気持ち、お察しします。
 
 
老後の不安だけでめいっぱいの中、認知症の場合はさらに「おさきまっくら」のようなニュアンスがつけ加わることは想像に難くないわけですが、そんな症状に苦しむ患者にこそデリケートにあるべきではないのかしらと思います。「完治しない」ってだけでかなり凹むのにね。

お医者様も日々に忙殺され、どうしても患者がトマトやじゃがいも、かぼちゃになってしまわざるをえないと思うのですけれども、それにしたって、患者は脅えますよ、生きている人間ですから。何気ない一言にもいちいち傷つくのです。

認知症の専門医も不足しているそうですが、日本は「今対処しなければばらないこと」に対しての早急な対処がないですから、こういった国の政策の遅れが現場に重くのしかかると思うと、お医者様だけを責めるわけにもゆかず。本当に、なんのために、誰のために税金を納めているのだか。

北海道砂川市立病院は国の「サポート医」政策ではなく、病院内に地域医療連携室を設けるという独自の方法で、認知症に対してのきめこまやかなケアを実現しています。
地域のかかりつけ医と砂川市立病院内の連携室のパイプラインを充実させ、日々のケアは地域かかりつけ医にまかせ、何かあったときは連携室に連絡をとり、連携室から同病院の専門医に伝達され、専門医が診察をするといった形式になっています。
現在は、地域医療連携室からかかりつけ医だけでなく、介護スタッフとも連携をとる体制もとりつつあるのだそうです。
病院内に連携室があることにより、診察の予約や、ベットの確保なども連携室が担い、スムーズなネットワークが確立されています。

国の「サポート医」政策は
専門医-サポート医-かかりつけ医 という図式なのですが、
サポート医数が地域によって偏っている上に、サポート医が担当する患者で手一杯の状態で、「連携室」のようなクッションにはなりえていない現実のようでした。

介護保険で運営されている介護施設では、投薬治療ができない現状だとか。
アリセプトという薬は1錠500円。原則、医療保険は使用できず。
しかも、施設入所中は薬代の個人負担も制度上認められず。
投薬治療と日常の適切な処置で、進行は遅らせられるのに、だまって進行してゆくのをただただ見ているしかないなんて。

桝添大臣の口からは「限界」という言葉が出ましたが、それじゃ医師の「治りませんから」とたいして変わりません。

地域ボランティアで、協力できることはないのかな。
例えば、時計に数字を入れるなどの定期テストだったら、近所の認知症予備軍のお年寄りにしていただくということぐらいだったら、地域で協力できるところもあるのではないでしょうか。
早期発見に加え、適切な対処で、認知症は恐ろしい病気ではなくなります。

一人でも多くの患者さんが適切な医療を受けられるよう、心からお祈りします。
私の母が若かりし頃に子宮内膜症をわずらった時も、当時、これといった特効薬はありませんでしたが、今は薬も治療法も当時が予想できないほど充実しています。
なので、私も自分の病気の特効薬もいつか必ずできると信じています。
医療は日々進歩しています。どうか希望を捨てることがありませんように。
 
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[2008/01/20 22:42] 未分類 | TB(0) | CM(4)

国の政策ってなんでもそうだけど、現場との温度差が大きすぎますよね。もっと現場のことを良く知る人の意見を、施策を考える段階から取り入れないといけないと思うんです。
有識者って、まあ全員ではないだろうけれど、本当に国民レベルで生活している人かというと、そうではない気がする。

わたしの祖母も認知症で、今は施設に入っていますが家族もやっぱり相当の覚悟が必要です。
むしろ、介護をはじめてからわかる大変さ。
「治らない」という言葉、時間がたつにつれ重たくなっていくんですよね・・・。

今でさえこういう状態で、これから先いったいどうなるんだろうと不安ばっかりです。医師を増やすだけでは、解決したとは言えない問題ですものね。
桝添さんは介護の経験があると言っても、経済的に余裕がある人の経験はわたしたちとは違うレベルのものなんだなあ、と思ってしまうんですよねー。

地域ボランティア、とてもいいアイディアだと思います。
ひとり暮らしのお年寄りが増えていくであろうこれから、地域の連携が必須条件であるとは思うんです。
でも実際の生活をみてみると、わたしなんか近所づきあいというものがまったくないし、挨拶程度のつきあいでは、なにかのときに頼ることもできないんですよね。
町内会とかもないし・・・。
地域のイベントに参加したりできたらいいんでしょうけど、平日の集まりはまず無理だと思うと、どうしても腰が重くなってしまって。ジレンマですねー。

mino_rinさんの病気にも特効薬ができますように。
そしていま、病気に苦しむみなさまにも。
わたしもお祈りします。

長文失礼しました(汗)
[2008/01/21 00:06] よっしぃ [ 編集 ]

よっしぃさん>>

よっしぃさん>>

コメントありがとうございます!
感激です~(;-;)

よっしいさんのおばあちゃまも認知症をわずらってらっしゃるのですね・・・。
私は、近い親戚やご近所に認知症をわずらっている人がおらず、症例に触れる機会がないのですが、昨日の番組でも、認知症に対する認知度が低く、なおかつそれに追い討ちをかける専門医の少なさを訴える声が、患者さんとその家族、現場スタッフからも幾度となく繰り返し出ていました。

「日々介護をするものにとっては、今日が永遠に続く」

ただでさえ辛い日々を、今日という日をのりきるだけでも精一杯な状況で、頼ったり、相談したりできる相手がいないどころか、逆に病院からの帰路に死んでしまいたいと追い詰められてしまうとは、福祉とは、医療とはいったいなんなのだろうかと、痛切に考えさせられました。
国には、今、この瞬間にも死の淵のギリギリに立つことと涙ながらに戦う人々がいることを、そして国には適切な処置をする援助をする力も責務もあるのだということを、今一度肝に銘じて欲しいと願うばかりです。
大学入学したら終わりのように、制度を確立したら終わりでなく、むしろそこがスタートラインで、そこからが本番。それを現場に丸投げしてどうせよというのでしょうね。

国の政策は「絵に描いた餅」などと言われることが多いですが、「絵に描いた餅」にさえもなってない現実に早急に誠意ある対応をしなければ。

例えば、昨日の番組は認知症でしたが、他の事例においても、国民が窮地に立った時、きっとこの国はいくらでも替えがきくであろう国民を捨てるのだろうとそう国民に感じさせるような現実なのですよね。
そしてなにかといえば「地方自治に任せる」。

政治家の方々は自分のご家族が認知症を患ってもテレビのドラマよろしく、待ち時間なく特別待遇の診察を当然のように受けられるのでしょうけれども、そんな人たちが作るものですから、中身はたかが知れているといえばそうなのかもしれません。

ただ、後手にまわせるものとそうでないものの見極めぐらいは、せめてそれだけは間違えてくれるなとお願いしたいです。

裁判員制度もしかりですが、働くものにとって平日は厳しいものがありますが、自分の生活の中で協力できることは協力してゆきたいですよね。

本当に、病の果ての孤独に苦しむ方々に、光がさしこみますよう、お祈りせずにはいられません。
[2008/01/21 21:38] mino_rin [ 編集 ]

祖父母の中で唯一生きてる母方のばーちゃんが認知症を発症してもう5年程になる。
発症した当時はまだ今よりも認知症というものに対し施設も専門医も少なかったし、母を含め母の兄弟4人とも最期まで自分達で面倒を見ようという気持ちが強かったため、ばーちゃんを施設に入れようという気はなく、4人で何とか交代ででも世話をしようということになり今に至っている。
ウチの場合家は神戸で、ばーちゃんが住んでるところは大阪だったので、介護レベル5になった時は母がそこまで月に何日か出向いて世話をするということになった。母1人では流石に大変だし、ワシとしても少しでもばーちゃんの手足になりたいと思ってたので、東京に来るまではずっと母と一緒に世話をしてた。発症した時は確かに覚悟はしてた。実際、まだばーちゃんが自分で歩けていた頃は徘徊もしてたし目も離せず本当に大変だった。ワシのことを忘れていく姿をみてるのも本当に辛かった。でも今となっては、その大変さよりもばーちゃんの元気な顔を定期的に見れていたことを本当に嬉しく思う。
ワシの「認知症を家族に持つ者からの見解」はよっしぃさんやminとはちと違うかもしれない。経済的に恵まれてる云々とは関係なく、どんな環境であれ大変だし、自分の親や家族が認知症になれば心情的にも物凄く辛いはず。ウチの場合は親戚同士で面倒を分担出来ていたので毎日世話をする必要はなかったからその辺は恵まれていたってのもあるが、幾ら大変でも、「介護」という考えを捨て、家族なんだと思えば、時は経てど親身になることって気持ちの持ちようで出来るとワシは思う。

介護医療現場というモノを直接見たことはないので、その辺に関しては想像でしかモノを言えないけど、介護に携わる方々は本当に大変だと思う。家族でもない他人の介護なんて、携わったことがないワシの想像なんか遥かに超えているはず。自分がそういう道を選んでいないから偉そうなことは言えないが「自分達が介護をして1人でも多くの人を助けてあげたい」と思う人が少ないんだろうね。おまけにそのバックアップをしなければいけないお国自体も腐ってると来たもんだ。
何の番組かは忘れたが、医者と政治家が10人ずつぐらい集まって言いたいことを言ってた番組を観たことがある。今のお国の政策では患者のために最良の治療は出来ないとほぼ全員の医者が物申してた。それに対し政治家連中は、政党同士の言い争いや自分らの政治的都合等、その場を取り繕う様なことばかりしか言ってなかった。これからますます高齢化していく日本で、尚且つ自分達の身にも降りかかるかも知れないってのに、こんなことでは本当にお先真っ暗としか言いようがない・・・。
現場が見えていないお上という構図は国に対してだけではなく、社会現象としてどこにでもそういう風潮は見える。「対岸の火事」という言葉があるが、これは日本に限らずもう人間の持って生まれた性質なのではないかとさえ思う。その対岸でさえ見えない人も多くいると、最近は感じることも多い。

少なくとも病というモノは生きている限り切り離せない永遠の課題。
病に苦しむ人達と、それを助けようと頑張っている医療現場を、お国は上からの目で見るのではなく、同じ目線で見て、より良い環境を作っていって欲しいと願うばかりだ。
[2008/01/24 12:05] だんぷる。 [ 編集 ]

だんぷる。さん>>

だんぷる。さんお久しぶり。
たくろう。といい、だんぷる。といいモーニング娘よろしく「。」がつくのはなぜ?

それは置いておいて、貴重な体験のコメントをありがとうございます。

こうやってここに書いてみると、オンラインで親しい人に認知症と関わっている方が以外にいらっしゃって驚きです。
ご自宅介護ということは、お薬の処方を受けたり、通院したりしているのかしら?
ご家族で協力しあっての介護、たいへんですね。介護する側も高齢であるのに、母方の兄弟のみなさんはよく頑張ってらっしゃいますね。

患者本人がわからなくなったとしても、住み慣れた我が家にいるのが一番なことにはかわりないとは思うのだけれど、例えば、徘徊に加えて暴力があったりすると、高齢の配偶者や、児童や病人のいるご家庭などでは介護をするのが非常に難しくなってくる面もあり、また、交代での介護は身内で相談したり愚痴を言ったりできるけれど、ご夫婦2人きりでどちらかが認知症という環境の場合は、介護する側の精神負荷が限界を超えてかかってしまうと私は想像するのだけど、それこそ「家族なんだ」って思えるまで耐えきれるかどうかもギリギリの状況におかれている人が大半な現状なのではないかな・・・と私は推測しています。

また、自宅介護には介護施設にはない良さがあり、介護施設には自宅介護にない良さがあると個人的には思うの(思いたいっていうのが正直なところ)だけど、例えば、自宅介護の場合は、気心知れた親族に住み慣れた家で介護してもらえるという面があり、逆に介護施設では自宅介護では難しい他者との交流の場という面があり、だから、どちらがいいとか悪いとかではなく、それぞれの選択肢の中で、患者本人と自分と両方の状況をかんがみて、ベストな方法は何かなって考えることが重要で、その選択肢すらも持てない状況が問題なのだと、個人的には思ってます。

また、他人の面倒を見る介護士さんには頭が下がるけれど、逆に身内より他人のほうがいいケースもあるとは思うので、そこらへんは介護士もその道のプロですから、むしろ、遠慮なく頼ってよい存在だと個人的には思います。
施設でお世話してもらうだけでなく、訪問の介護士さんに素人では難しい専門分野をお願いするなど、むしろ、他者が関わることは、閉鎖的になりがちな自宅介護に風をとおす良い機会だとも思います。しかしながら、専門医がいないように、介護のプロである介護士もまた不足している現状なわけで・・・・・。

今回たまたま番組を見て、ここに感想をUPし、コメントをいただき、認知症のサイトをいくつか見て強く思うことは、患者を抱える家族がこの狭い日本の世の中で「陸の孤島」になってしまうことだけはどうにかならないものかということでした。

私が国に望むのは、とにかく「人として痛みを感じてほしい」――ひたすらそれだけで、すべてはそこから。
このブログでも”異例の判決”(http://minorin.blog2.fc2.com/blog-entry-581.html)というタイトルで認知症の母親を殺害した息子の裁判について書きましたが、この事件を関係者だけの痛みではなく、国民のためにあるものとして同じ痛みを感じられるよう、常に努力をし続けてほしいということです。
明日食べるものさえない母親と息子の間に交わされた「死んでくれ」「いいよ」というこの世の最後の親子の会話の惨さを。
そして、今、この瞬間も同じ状況で苦しむ人々がこの国にたくさんいるということから目をそらさないでほしいと切に願うばかりです。
 
[2008/01/24 23:52] mino_rin [ 編集 ]

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